【連載コラム】寺坂直毅の小田急百貨店ジャーニー

  • 【連載コラム】デパート愛好家・放送作家 寺坂直毅の小田急百貨店ジャーニー
6月1日に創業61周年を迎え、この秋には本館からハルクへお引っ越しをする小田急百貨店新宿店。大きな変化のなか、今回は数々の人気番組を手がけ、デパート愛好家でもある放送作家 寺坂直毅さんの小田急百貨店コラム全15回を連載。
小田急百貨店の意外な発見や懐かしいエピソードが満載ですよ。
寺坂直毅 (てらさか・なおき)
放送作家。1980年。宮崎生まれ。
「星野源のオールナイトニッポン」「松任谷由実のオールナイトニッポンGOLD」(ニッポン放送)、「うたコン」(NHK総合)などの構成を担当。
デパートの知識も豊富で、著書に「胸騒ぎのデパート」(東京書籍)がある。
寺坂直毅氏

第3回
小田急百貨店はこうして誕生した!

2022年6月8日(水)
人のヒストリーを探ると、その人への愛情がどんどん湧き出てきます。
デパートを愛する私は、デパートのルーツを探る事から、お付き合いを始めます。
小田急百貨店は、どのような経緯で誕生したのか調べてみました。
開店したのは1962年11月3日。今から60年前の事です。こどもたちの間では「おそ松くん」が流行し、若者は「ツイスト」を踊り、サラリーマンは「ハイそれまでヨ」「スーダラ節」に自分自身の生活を重ね、泣き笑いしていたのだと思います。
そんな高度経済成長期に、小田急百貨店は誕生したのです。といっても、最初は現在のビルではなく、現在の「新宿西口ハルク」が、当時「小田急百貨店」として営業していたのです。
当時の新宿駅西口は、バラックが立ち並ぶ場所でした。
そこに「東京建物新宿ビル(現・新宿西口ハルク)」が完成。そのビルの利用について検討した末、百貨店を運営する事になったのでした。
ハルク 外観
小田急百貨店がハルクからスタートしたこと、ご存知ない方も意外とたくさんいらっしゃるのでは?
当時のキャッチコピーは「新しい都心の新しいデパート」オープン当日の入店総客数はなんと20万人だったとか。
当時の店内イメージ
開店と同時にお客さまでいっぱいの店内
入場制限の様子
やむなくシャッターを下ろし入場制限
当時のフロアガイドを見るとワクワクします。
当時のフロアマップ
当時のフロア構成
ハルクの場所は、JR(当時・国鉄)や私鉄の各改札からは少し離れた場所にあります。
その距離感を解消するために、地下通路が設けられました。
地下通路には、当時動く歩道(ベルトレイン)という物があったそうです。記憶にある方はいらっしゃるでしょうか?左側にしか手すりがないのがユニークです。
当時は大阪の衣料問屋ビルと観光船氷川丸の内部の2か所にしか設けられておらず、都内では初、百貨店では全国初だったそうです。
当時のベルトレイン
当時のベルトレイン。長さは20mでした。
「新しい都心の新しいデパート」というキャッチコピーだけに、いろんな新しい試みを行っていました。中でも注目したいのは「集団結婚式」
開店直後の11月16日、1階に6組のカップルが勢ぞろい。お客さんが見守る中、エスカレーターで8階へ。特別食堂に設けられた結婚式場で挙式を行いました。
結婚式の様子
結婚式の様子。なんと300組近くの応募がありました。
更に驚く試みは、中2階。なんと、ニッポン放送のサテライトスタジオがあったそうです。
開店当日からラジオの生放送がスタートしていたそうです。
今でこそ、一般の方がガラス越しに、ラジオの様子を見る事が出来るサテライトスタジオは全国にありますが、小田急百貨店のスタジオが日本初。当時はその場でリクエストを受け付けて、かけていたそうです。
当時どんなリクエストがかかっていたのでしょうか。
私がタイムスリップできるなら、1962年のヒット曲、橋幸夫と吉永小百合の「いつでも夢を」をかけたいと思います。
実際のサテライトスタジオの様子
実際のサテライトスタジオの様子
そして1967年、現在の小田急百貨店の本館が完成するのです。そのヒストリーは、また次回。
アンモナイトの化石を撮影している様子
本館10階にはアンモナイトの化石を見ることができます。まだまだ知らないみどころがたくさん!

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